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zoom RSS 「悲劇の撤退作戦 〜ツルブ・松田支隊〜」 NHK BSプレミアム

<<   作成日時 : 2011/08/09 19:07   >>

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8月16日 (火) 午後6時00分〜6時43分 BSプレミアム

再放送:8月24日(水)午後0時00分〜0時43分 BSプレミアム

証言記録 兵士たちの戦争

「悲劇の撤退作戦 〜ツルブ・松田支隊〜」 


戦時中、日本軍の一大拠点・ラバウルがあるニューブリテン島に送られた部隊があった。鳥取県や広島県出身者などから編成された部隊「松田支隊」だ。連合軍の侵攻を防ぐため、西端の要衝「ツルブ」に派遣された部隊、しかし、兵士たちは軍上層部の「持久」と「玉砕」という、相反する場当たり的な作戦指導に翻弄され、混乱。やがて壊滅していく。軍司令部の一貫しない命令に翻弄され続けた松田支隊の兵士たち。証言から、ツルブの戦いの過酷な実態を記録する。


祖父の戦友だった方から、かつて所属した部隊がテレビで紹介される旨のお知らせを頂戴した。当時の中隊に属していて今も存命なのはこの方を含めたった二名だという。この方に年齢を尋ねると90代半ば。もし祖父が生きていたら106歳くらいになっているのだから、驚くにはあたらない。この方は、NHKの取材に応え、過酷な運命をたどった上記支隊の運命について語った。番組に祖父の名前は出てこないが、全国放送でもあり、孫の私に番組のことを知らせてくれた、というわけだ。恐縮するしかない。

ブログ主は戦後生まれだし軍事には疎い。しかし、子供の頃、風呂場で、爆弾の破片による傷が幾つも残る祖父の背中を何度も流した。あの背中の傷跡を私は生涯忘れないだろう。

祖父が戦争について話すことは稀であった。決まり文句は「おまえたちに話してもわからない」だった。しかし、テレビで戦争モノのドラマなどがあると、断片的にだが、戦争の頃について口にした。

私が今でも覚えているのは・・

「士官学校出の将校は<死ね!死ね!>とばかり言っていたが、あれは理解できなかった」

・・で、祖父は明治の人だったので、戦争に反対ではなく、戦地で戦うことを名誉と考えていたが、同時に、農業技術者/研究者でもあり、植物を育てるのが天職の人であった。

そんな祖父には、兵隊に「死ね!」と命じる職業軍人の行為は理不尽だったのだろう。

祖父は士官学校を出た職業軍人ではなかった。しかし、高学歴の一年志願兵(予備役少尉補)だったもので、招集された最初から陸軍少尉で、途中から中尉となり、昭和18年12月より中隊長となる。所属したのは福山歩兵第141連隊で、この連隊はフィリピンから激戦のニューブリテン島に移動する。ラバウル基地で終戦を迎え、祖父は昭和21年5月に復員している。

戦争末期、ラバウル基地には数万人(!!)の日本人将兵がいた。「ラバウル要塞」と呼ばれるほどの陣地を築いていたものの、飛行機も船もなかったので、米軍陸軍は強固なラバウル基地を敢えて攻略せず(空爆はあったらしい)、素通りして、フィリピンから沖縄へ向かった。終戦の少し前から復員までの間、祖父がラバウル基地でやっていたことは、農業指導であった。中隊史には「現地自活、農耕指導官」とある。「子供以外ならなんでもできる」と言われたラバウルでは、兵士たちが自給自足の生活を続けていた。祖父は作物の栽培を教え、部下だけではなく、別の部隊の兵士からとても喜ばれ、尊敬されたという。

あの水木しげるさんもラバウルにいた。NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」の中で、水木さんと祖父が重なる部分があった。それは、「戦争で死んだ者は可哀そうだが、生き残った自分を可哀そうと思ったことはない」という水木しげるさんのセリフだ。戦争で片腕を失った水木さんが話すので、このセリフには更に凄味が増す。NHKのドラマで印象に残ったのは、水木さんが、片腕しかないことを恨んだり悲しんだりしないところだ。

祖父も、中隊長(前線で指揮をとる役目)として、おびただしい「死」を見てきた人だが、水木しげるさんのように、そのことを感情に表すことはほとんどなかった。テレビで遺骨収集団のニュースをやっていると、「死んだ者の骨を拾うて何になる?」と苦笑していた。祖父は、珍しい旧軍人だったかもしれないが、私はそういう祖父の科学者的な言動が好きであったし今も好きだ。

もうひとつ、面白いエピソードがある。

祖父は、研究でも大きな業績をあげた人で、ある年、「○○褒章」だか「勲○等なんとか賞」だかが授与されるという吉報が届いた。

ところが、祖父はあっさりと辞退するのだ。

辞退の理由は・・

「戦争から生きて帰れただけで充分だ」

・・であった。

家族は、「貰っておけばいいのに・・」と思ったものの、いかにも祖父らしい態度に、苦笑するしかなかった。

祖父の存在の大きさを理解するには私は子供すぎた。ただ、今、中隊史(2冊ある)を読むと、タバコばかり吸っていた、とか、「連隊一の呑気屋」とか書いてあり、これは正解だと思う。怒ると怖かったが、いつもユーモアを忘れない祖父は、そういう性格だからこそ、大勢の部下や同僚から慕われたのだろう。

このドキュメンタリーを見るのは、しかし、辛い。

兵士たちは軍上層部の「持久」と「玉砕」という、相反する場当たり的な作戦指導に翻弄され、混乱。やがて壊滅していく。軍司令部の一貫しない命令に翻弄され続けた松田支隊の兵士たち。証言から、ツルブの戦いの過酷な実態を記録する。

この「ツルブの戦い」に祖父は参加していた。中隊長として、である。小隊長や中隊長は前線で指揮を取る階級である。だから消耗もひどかった。生前、祖父は個別の戦闘については話さなかったが、それは、祖父の率いた中隊も「場当たり的な作戦に翻弄され、混乱した」からだったのか。今となっては知りようがない。ただ、孫として、この番組を見ないわけにはいかない。

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今日、番組を見て、祖父がニューブリテン島で経験した「戦争」がどのようなものだったかについて知った。なお、そもそも祖父の連隊はフィリピンの守備隊であったが、フィリピンで激しい戦場に投入され、その後、ニューブリテン島に送られ、この「支隊」に入ったという。

「陣地を死守せよ」「敵軍を浜辺でむかえ討て」「総攻撃で玉砕せよ」「攻撃は中止して千キロ離れたラバウルに徒歩で帰れ」・・と、二転三転する上からの命令に翻弄される兵士や下士官たち。その度に多くが戦死、戦病死、病死、飢餓での死をむかえる。理不尽とはこのことだ。支隊長は兵隊をおいて、駆逐艦でさっさとラバウルに帰ったそうだ。

お名前を書くのは控えるが、番組で証言をしていた元兵士の方は祖父の部隊にいた。同じ広島県人である。「ヘビでもトカゲでもカエルでも、食べられるものは何でも食べた」と祖父は言っていたが、私の記憶は正しかった。

ニューブリテン島のジャングルを、敵の影におびえながら食糧も水もなしに1,000km行軍することなど、想像ができない。「生きて帰れただけで充分だ」という祖父の言葉がよみがえる。

面識がないにも拘わらず、ご自分が所属していた隊の中隊長の孫(ブログ主)に番組のことをお知らせ下さった○○さんに感謝するとともに、戦後66年がたっても、昨日の事のように当時の状況を説明されるその姿に感動を覚えた。

戦争を語り継ぐ、とよく言われるが、本当に難しい。戦争を知らない孫にできることは、ブログに記録することくらいだが、ブログに残すことで自分の中にも何かが残ればありがたい。

なお、祖父がニューブリテン島で苦闘していた戦争末期、祖父の実兄は、広島市内で被曝している。祖父とは状況が違うが、祖父の兄も「九死に一生を得た」。

ブログ主の家族史/親族史は、広島県とハワイ移民と戦争と原爆に深く関係している。
asianimprov
2011/08/16 20:02

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