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zoom RSS 『戦前昭和の社会』 ― 「昭和デモクラシー」という時代

<<   作成日時 : 2011/05/27 22:26   >>

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「大学は出たけれど」、新興宗教ブーム、10銭均一売り場……「暗い時代」の明るい日常生活

「十銭均一売り場」に足を運ぶ消費者、女性の地位向上を推進するモダンガール、新興宗教ブーム、就職難にあえぐ学生──。現代社会の原点=戦前を生きた人びとの実像を描き出す一冊。

目次
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はじめに アメリカ化・格差社会・大衆民主主義
1章 昭和の大衆消費社会
 1.デパート――大衆消費社会の象徴
 2.アパート――戦前昭和の縮図
 3.映画――スクリーンの向こうのアメリカ
 4.家庭電化製品という希望
2章 昭和の格差社会
 1.モダンガールの登場
 2.モダンボーイ――新中間層の苦闘
 3.プロレタリア文学と大衆
 4.「エロ・グロ・ナンセンス」
3章 格差是正の試み
 1.立ち上がる農民――雑誌『家の光』の世界
 2.「婦人」の登場
 3.新しい労働者
 4.新興宗教の興隆
4章 カリスマ待望と戦争
 1.ラジオと戦争
 2.エプロンからモンペへ
 3.写真壁新聞というメディア
 4.ファシズムへの共感
おわりに 戦前の昭和から戦後の昭和へ


アメリカ化、格差社会、大衆民主主義。この三つを「戦前昭和の社会」を分析するキーワードとして、1926年から1945年の20年間を再構成した本。新書版なので寝っ転がって手軽に読めるが、中身はなかなかに「発見的」で、僕がとりわけ「そうそう!」と同意するのは「昭和デモクラシー」といえる時代があったという記述である。「大正デモクラシー」は教科書に載っているが、昭和初期から日中戦争、日米開戦の時代は、戦争に傾斜していく下りの坂道のように言われることが多い。だから「昭和デモクラシー」という言い方を知り、最初は戸惑った。ところが、昭和初期のモダンな日本には、大衆消費社会とそれを担うビジネス(デパートの誕生)や文化(ハリウッド映画)、そして、それらをファッションやライフスタイルで表象したモダン・ガールたちがいたのである。

そういえば、僕の祖母などは、昭和ひとけた世代の父母よりよほど豊かな(経済的にも文化的にも)青春時代を過ごしている。そういう家庭に育ったこともあるが、祖母は映画(洋画)が好きで、ゲイリー・クーパーの大ファンであった。専門学校の頃には硬式テニスを楽しんでいた。だから、祖母の青春時代が「暗闇」であったとは思えない。勿論、日本の経済は疲弊し、政治は機能せず、都市部と農村部の格差が広がり、国民は政治家ではなく軍部に希望を託すことになり、真珠湾攻撃に帰結するので、この20年を肯定はできない。この、一見相反する「明るさ」と「戦争への助走」が同時に進行し、後者が前者を飲み込んでしまうわけだが、このあたりを当時の世相や文化やライフスタイルに着目して説明しているのがこの新書である。

戦前、国民の大多数は農林業や漁業にたずさわっていたから、モダンな都市型文化が日本全体をあらわしていたわけではない。しかしながら、アメリカ的なもの、例えば、大量消費や、享楽的でオープンな文化(まさにジャズだ)は、極く一部の上流階級が楽しんだ外来文化ではなく、ある意味、みんなの憧れであった。こういうアメリカ礼賛の時代は1930年代に入っても続いており、日米の交流は活発であった。

日系アメリカ人が日米友好や交流に果たした役割も時代を反映している。以前にも書いたが、僕のハワイ生まれの二世の大叔父は、日本初のチームが組まれた明治大学でアメリカン・フットボールを(嫌々ながら?)プレイしていたが、大叔父の在学中に、なんと、米国からUSC(南カリフォルニア大学)の代表チームが船に乗って(当たり前か)来日しているのである。更に、全米の選抜チームが、日系二世以外試合のルールを知らないこの国までわざわざやってきて、各地で交流試合をしている。当然のごとく、結果は日本側の全敗だったが、日米がそういう試合をしてくれたおかげで、大叔父の日本での軌跡が、当時のメンバー表に残された。

大叔父が明大に入学したのは1931年(昭和6年)頃。満州事変の年である。満州事変という言葉に反応してしまうと、「ううう」と暗くなってしまうが、時代が突然ブラック・アウト(停電)したわけではなく、アメリカに憧れる日本も存在したのだ。日米交流というと、米国人と日本人が互いに行き来することと思われがちだが、米国生まれの二世たちの「移動」も当時の日米間の近さを示している。たとえば、戦前に米国本土やハワイから日本に来て教育を受けた二世は数千人いたといわれている。実際の人数はカウント不能だが、僕の祖母が通った広島市の私立の女学校には、1937年のデータで、150名弱の二世たち(米国国籍もしくは米国と日本の二重国籍者である)が学んでいた。祖母が在籍していたのはこの十年ほど前だが、それでも同じ米国生まれの二世が何人もいた。

日本に送られた二世たちは、余裕のある家庭の子女であることが多い。出稼ぎ移民から定住へ変化し、仕事も軌道に乗り・・というファミリーに育った子女である。更に、日米の為替の関係もあり、日本で教育を受けていた二世たちは比較的裕福であった。そうゆう家庭の子女、特に女子は、流行やファッションに敏感である。時代の先端をあらわす品物を選ぶという文化だ。例えば、祖母にとって、デパート(百貨店)といえば三越(本店)であった。高島屋でも大丸でもダメ。三越こそ一番。おかげで、こどもの頃、大阪は北浜の三越にはよく連れて行ってもらった。大食堂でお子様ランチを食べたような記憶もある。祖母は、東京の日本橋にオープンした三越に行っていたに違いない。ちょうど女子美術学校(今の女子美術大学)の学生の頃だ。当時のデパートには靴を脱いで入るということをこの本で初めて知った(下足番がいた)が、要するに、モダニズムの最先端が「買い物をするための最高の場所」として集約されたのがデパートだった。あふれるほどの商品の中から欲しいモノを買う、という文化。それは、食うために買うのではない、「消費そのものを楽しむ」という文化の誕生であっただろう。また、デパートで働く女性たちも、女性の職業として、当時の最先端であった。

今の若い人たちにはピンとこないだろうが、僕のようなオッサンには、デパートとは、非日常の世界であったし、いまもそういう場所である。デパートとは、「欲しいモノがあるから行く大型小売店舗」ではなく、「よそいきの小粋な服を着て訪れ、店員と会話しつつ品物を選び購入するという消費行動そのものを楽しむ空間」なのである。少なくとも、デパートの勢いが弱くなる前まではそうであった。僕の同級生は大学卒業後、高島屋に就職したが(今も勤務中)、それは、その当時には、都市銀行に就職したのと同じくらいの安定感を意味した。首都圏で伝統のある有名デパートが相次いで閉店する現在とは違っていた。

モダニズム。モダン・ガール(モガ)。モダン・ボーイ(モボ)。カフェ。華やかな文化が咲く都会。しかし、その陰画のように貧しい農村や漁村。格差の拡大。社会主義や共産主義に向かう流れと、軍事的な方法で格差を解消しようとする流れ。極めて荒っぽいが、「戦前の昭和」というわずか20年の間に「アメリカへの憧れ=アメリカ化」から「鬼畜米英」に180度転換してしまうこの落差の激しさを説明するには、「昭和デモクラシー」という、「「暗い時代」の明るい日常生活」(この本の宣伝コピー)を理解しなければならない。著者はそう言いたいのだろう。僕も同感だ。

以上、紹介にも書評にもなっていないひどい文章だが、祖母や大叔父の青春時代の日本はどうだったのか、という興味で手に取った本が、モダン・ガールとしての祖母のライフ・スタイルに重なったので、書いてみた。

最後に、下の写真は、女学校時代の祖母が同級生(おそらく全員が米国生まれの二世)と撮ったもの。モダン・ガール発祥の地、東京ではなく、広島市内の写真館で撮影されている。この可憐な1920年代ファッションと背景の演出には恐れ入る。撮影時期は大正末期から昭和初期。なお、当時の広島市にモダン・ガールが闊歩していたかどうかはわからない。この服装は撮影のための「とっておきのドレス」なのかもしれない。もしくは、撮影用にこの写真館が準備していた貸衣装だったのか。片山写真館の末裔の方がおられたら聞いてみたいが、これも不明だ。

以上のように、わからないことだらけだが、こういう写真が撮られたことは事実であり、この一枚は、まさしく、当時のアメリカ化した日本の服飾文化の最先端を示している。祖母を含む米国生まれの二世の女子学生たちは、最先端としてのアメリカからやってきた。だからこういう写真も違和感はなかっただろう。この写真に比べ、この本に出てくるモダン・ガールたちのファッションは、どこか「借り物」の匂いがする。アメリカからやってきた二世たちがとるポーズのなんと自然なことか。この写真一枚を見ても、人間は、生きてきた文化と社会によって創られるということがわかる。なお、祖母が4人の中の誰かは秘密。(^.^)

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コメント(4件)

内 容 ニックネーム/日時
お祖母さまの写真驚きましたね。片山写真館のエンボスが押してあります。背景は何でしょうか。
お祖母さまはどちらの女学校に行かれていたのでしょう?当時廣島にはキリスト教系なら廣島女学院しかなかったと思いますが、調べて見られたことはありますか?
卒業生名簿などから意外なことが判るかもしれませんね。
Hawkeye
2011/06/06 00:53
>大尉殿

アラビアン・ナイト風のこの背景は・・謎です。ただ、このようなモダンなセットを持つ写真館が大正末期から昭和初期(祖母が高等女学校に通った期間)に広島市に存在したという証拠にはなりますね。

祖母は、進徳高等女学校卒です。浄土真宗系の歴史ある学校で、現在も進徳女子高校として存続しています。祖母の同級生の名簿も残っておりますが、郷里の住所が記載させているため、誰が「在日二世留学生」だったのかは不明です。少し後のデータですが、1937年には進徳女学校には147名の米国生まれの二世(本土+ハワイ)が就学していました。

祖母の頃も同級生に二世がいて、二世どおしで英語で会話し、助け合ったそうです。だって、日本人移民の娘とはいえ、日本は、彼女たちにとって、初めて経験する「外国」なんですからね。ハワイで日本語学校へ通っていたとはいえ、母語は英語でした。少なくともその当時は・・

祖母に「おばあちゃんは同窓会とか行かないの?」と尋ねたことがありますが、「みんな、原爆で、死んでしまった」と返事をされて凍りついた事があります。政治中は近畿に住んでおりましたので、祖母は被爆はしていません。
asianimprov
2011/06/06 10:47
新徳ですか。そうか帰国子女でもキリスト教徒なわけないですよね。新徳はたしか仏教系、中高生時代には自転車で皆実町の新徳女子高の前を通りました。
Hawkeye
2011/06/12 13:00
祖母が在籍していた頃は広島市中区千田町に校舎がありました。その後、南竹屋町に移転し、その校舎が原爆で全焼した後、現在の皆実町に移ったそうです。

祖母の父はハワイ曹洞宗別院の代議員を務めた人ですが、ハワイでは浄土真宗が強く、仏教つながりで、進徳女学校に入ったのではないかと推測しています。

そういえば、生前、祖母は「実は進徳ではなく別の女学校に行きたかった」と言っておりました。どの女学校だったのかは今となっては不明です。Hawkeye大尉が名前を出された広島女学院などのキリスト教系に行きたかったのかも。
asianimprov
2011/06/13 08:58

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