衣乾したり 天の香具山 / リービ英雄と「言葉の杖」

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『千々にくだけて』に感心した後、リービ英雄の著書とは離れていたが、今度出た『我的日本語』を、移動の間に、またたくまに3回以上読み返した。読むたびに付箋が増えていく。(笑)この本を読むために、空港へ早めに着き、がらんとした待合室でまた読んだ。なお、いつも付箋を持ち歩いているわけではない。仕事に必要なのでかばんに入れていたのが役に立った。

僕が紹介しようとした部分が既に他の方のブログにあった。

とても感動したのは、「言葉の杖」の中で、李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」をとりあげて、〈ことば〉の本源へと迫っている。主人公の由熙は在日韓国人。ソウルの大学に留学している。ところが、故国になじめない。激しいカルチャーショックを受ける。由熙は韓国人になじめないまま、日本に戻る。この小説の最後に、世界文学の中でも類を見ない、最高の比喩が書かれていると、以下を引用している。

――ことばの杖を、目醒めた瞬間に掴めるかどうか、試されているような気がする。・・・・・・
――○(ハングル表記のア)なのか、それとも、あ、なのか。○であれば、ア・ヤ・オ・ヨ、と続いていく杖を掴むの。でも、あ、であれば、あ、い、う、え、お、と続いていく杖。けれども、○、なのか、あ、なのか、すっきりとわかった日がない。ずっとそう。ますますわからなくなっていく。杖が、掴めない。(『由熙』)


人は誰しも、朝起きたときに、言葉の杖をつかんで生きる。
李良枝の意識は、そこまでたどり着く。・・・・・・・
これを読めば、日本人でも韓国人でもない、あるいは日本とアジアの歴史となんのかかわりもない国籍のひとが読んでも、言葉とアイデンティティの問題が、身体的にわかる。ここに、日本と朝鮮の近代史、日本とアジアの近代史から生まれた、なのにそれを超えた、普通の人間と言葉との関係が、すぐれた比喩によって表わされている。
英語の世界におけるポストコロニアル文学で、ここまで言葉そのものについて考えた作品があっただろうか。非常に少ないか、あるいは、ない。
言葉にたいする意識自体が際立っている。
「何人である」ということと、「何語で話すか」ということ、「何語で考えるか」ということ、最終的には「何語で書くか」ということが、ここで明確にテーマとなった。人間にとって母語と母国語、あるいは異言語とはなんなのか、人間にとって言葉そのものとは何なのか、そういう意識が、僕らの時代に初めて現れた。

(第三章 日本語とアイデンティティ 「言葉の杖」より)


この「言葉の杖を掴む」という、ある種、血を流すような毎朝の作業に、人間と言葉との切っても切れない関係(性)の重さを感じる。リービ英雄も、李良枝とは違う立場で、同じような作業をしている。リービ英雄は研究者であり作家だが、僕には彼の考え方や視点に職人気質がみえる。翻訳は言葉を置き換えることではなく、現場を踏むことと文学的想像力という両極端の作業を翻訳者に強いる。リービ英雄はプリンストン大学の図書館で読んだ『万葉集』と、実際の「天の香具山」とのイメージの差に驚愕し、しかし、嘘だ!とは思わない。反対に、万葉人の想像力に言及し、有名な「衣ほしたり 天の香具山」をほめるのだ。

ブログ主はちょうどこのあたりで生まれた。大和三山の見える奈良盆地。やや歪んでいて見る角度により形が変わる畝傍山と、可愛らしい耳成山に比べ、香具山の存在感は薄い。「天の」という比喩が付くから大きいだろうと思うとがっかりする。それは、リービ英雄が書くようにmountainではなくhillなのだが、山か丘かという分類より、その香具山の景色を当時の人々がここまで壮大にまた的確に、感情を込めて詠んだということにこそ、リービ英雄は意味を見出すのだ。

そういえば、耳成山や畝傍山には登ったことがあるが、香具山はまだ一度もない。そもそも、登る山という感じがしないのだ。背景に別の山脈があるからかもしれないが、香具山は香具山として独立しているように見えない。

さて、李良枝の言う「言葉の杖」だが、例えば、北米であれ南米であれ、アジアであれ、どこであれ、移民の二世たちは、目覚めた瞬間に、どの「言葉の杖」を「掴んだ」のだろうか。そう考えると、このブログとリービ英雄の問題意識とは実は接近している、というか、重なる。

李良枝の「言葉の杖」と、日本人移民の子弟たちの「言葉の杖」とは、外部環境は違うけれども、人間と言葉との桎梏という部分では重なりあい、響きあう。そして、この問題は、先日のテレビドラマでは、まったく問題にされなかった。ドラマでは、すべてが日本語で説明され語られ進行した。

追記:リービ英雄の「英雄」は、リービ英雄のお父上の友人で、収容所経験のあるひとりの日系人の名前に由来しているという。その日系人の名前の漢字は「英雄」ではなかったが、ヒデオという音から「英雄」という漢字を選択し、筆名にしたそうだ。リービ英雄の本名はイアン・ヒデオ・リービ。偶然だが、リービ英雄の「その名にちなんで」が、日系人や収容所に関係していることに妙な因縁を感じてしまう。ジュンパ・ラヒリの小説"Namesake"ではニコライ・ゴーゴリだった。


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この記事へのコメント

蒼い雪
2010年11月15日 23:41
この本、早速注文して読みますね。教えてくださって感謝です。”この問題は、先日のテレビドラマでは、まったく問題にされなかった。ドラマでは、すべてが日本語で説明され語られ進行した”の部分ですが、これは、大河ドラマの龍馬伝が、どうやらほんとの史実とはかなりかけ離れた脚色がなされている(と聞いてます、私はわかりません。。笑)ということと関連するのでは、と考えます。ビデオを借りて来て、今見ていることをご報告します。感想は、もう書きません。。(笑)
hana
2010年11月17日 02:39
私も、この本を読んでみたいと思います。李良枝の「由熙」は手元にあるのですが、もう一度読み直したくなりました。

在日コリアンにとっての「ウリマル」と、日系アメリカ人にとっての「ニホンゴ」は、どこかリンクしているものがあります。他のグループでもそうなのだと思いますが、自分たちの親、先祖のことばには、自分をひきつけたり、遠ざけたりするものがあるんだろうなあと思います。在日コリアンの友達は、「私が子供の時に習ったのは朝鮮語、今韓国で習っているのは韓国語」と言っていました。その友達は「おばあちゃん」のことを「ハンメ」と言いますが、韓国語では「ハルモニ」。韓国人の友達に笑われたそうです。それでもハンメはハンメなんですよね。とりとめなくてすみません。
2010年11月21日 09:27
>蒼い雪さん

「龍馬伝」は「伝」ですから(笑)脚色があってもいいんじゃないかと思います。主役は福山だし、ね。かっこよくしないとファンから文句がきます。

大河ドラマでストーリーがめちゃくちゃだったのは「篤姫」で、あれこそ「篤姫伝」にしてほしかった。「あまりにひどい」と歴史に詳しい連中が呆れてました。

後で気が付いたのですが、「篤姫」の脚本を書いたのが朝の連ドラの「さくら」を書いた田淵さんという人で、「ああ、仕方がないわ」と妙に感心しました。

でも、間違ったハワイの日系人像を日本に流した「さくら」もそれなりに「成功」したし、「篤姫」は視聴率を取りましたし、私も鹿児島で「篤姫焼酎」かなにかを土産に買ったので、見事に乗せられたクチです。あはは。

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