『脱アイデンティティ』 一貫性ではなく変化することで維持されるなにか

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書評のしにくい本だ。それはアイデンティティという概念の曖昧さに起因する。アジア系アメリカ研究や移民研究にはアイデンティティについての議論は必須だが、これほどその使われ方の文脈に依存する用語もない。また、研究者の側の個人的なアイデンティティも問われるのが社会科学である。アイデンティティを考えることは、研究者のアイデンティティを再考することにつながる。社会科学、特に社会学は再帰的なガクモンである。また、学説史的にはアイデンティティという概念を提示したエリクソンという学者の生い立ちや時代背景まで視野に入れないとアイデンティティについて論じられない。

もはやアイデンティティなど古い枠組みだと切って捨てるのは簡単だが、実際、アイデンティティを巡る言説は、ポスト・アイデンティティの時代と言われる現在も影響力を保っているので、避けては通れない。例えば、現在、アカデミックな世界では、さすがに、<アイデンティティ=自己同一性=首尾一貫した自己=主体(性)>という単純な説明はされなくなったが、世間一般(←これが一番大事だ)では「本当の自分」とか「自分らしさ」を探すゲームがそれなりの説得力を持ち続けている。まるでタマネギの皮をむくように「○○らしさ」や「△△らしさ」を求める人は減らない。外国人を嫌悪することが「日本人らしさ」だ、とするひとたちもいる。タマネギの芯には必ず「真正の<自分らしさ>」があるのだ、という、何の根拠もない仮定を、彼ら彼女らは疑わない。運動能力だけでなく知力に溢れた優れた有名元サッカー選手でさえ、「自分探し」という理由で数年もの間、旅を続けている。

アイデンティティは変化しなければ維持できない、というのがこの本に寄稿している9名の一致した考え方だろう。これは一見矛盾するようだが、アイデンティティとは、「動的な方便」みたいなものである。「方便」というのは一時しのぎのための便宜的手段である。アイデンティティを「存在証明」と訳すひともいるそうだが、その「存在証明書」の文面は複合的で多元的で流動的である。

以上のような知見を基にしているとはいえ、論者により、アイデンティティに寄せる感覚に温度差はある。物語としてのアイデンティティを精緻に論じるひともいれば、自己史を濃密に反映させながらテレサ・ハッキョン・チャを引用しつつ激しく「日本人」を批判する鄭暎恵のようなひともいる。個人的には、三浦展のエッセイ風論文「消費の物語の喪失と、さまよう「自分らしさ」」には爆笑させられたし、斎藤環の「乖離の時代にアイデンティティを擁護するために」はまるで自分のことを書かれているようで、まいった(笑)。編者の上野千鶴子による学説史のまとめは見事で、これだけでもこの本は読む価値はある。

今回のブログ記事では鄭暎恵の論文「言語化されずに身体化された記憶と、複合的アイデンティティ」について触れる。自分の複雑な文化的歴史的背景や経験を礎に論文を書くことは、自分の体を利用して人体実験をするようなものであり、対象を突き放して客観的に書くよりかえって難しい。だからそのパワーには敬意を表したい。ただ、違和感も残る。鄭暎恵は論考の最後を「質問」としてこう結んでいる。

「国家語により感性を支配されている「日本人」たちは、いかにして自己の言葉で自分自身を語ることが可能になるのだろうか?」
「いかにして、近代社会と国家が作り出すアイデンティティから、自己を解放させることができるのだろうか?」
「どこまで掘り下げれば、複合的アイデンティティと出会えるのだろうか?」


こういう角度での問題提起によりアイデンティティを考えることに僕はある種の危うさを感じる。いささか紋切り型の「支配―解放」「近代社会/国家―自己」という二項対立的な配置と、彼女が敬愛するテレサ・ハッキョン・チャの多様な仕事――文学だけでなく平面アート、立体、インスタレーション、映像等々――とは馴染まないのではないだろうか?「国家語により感性を支配されている日本人」と鄭暎恵は書くが、「言葉により感性を支配されていない人間」が存在しえるのだろうか。そもそも「感性の支配」とはなんだろう。

「多文化主義が「物語る権利」への擁護としての側面を前面に出したときには、もっと厄介な問題が浮上する。特殊な立場の排他的な特権化がなされるのだ。「その切実な悲しみが分かるのは、女性でアフリカ系の同性愛者だけだ」といったような主張がそれである。こうした主張を許してしまえば、どんな行為でも――なにがしかの程度において――正当化されてしまう.だが、戦前に軍隊を指揮した者が、アジア侵略への切実な欲望は他人には分からない、などと主張した場合のおぞましさを考えてみよ。」

以上は、大澤真幸が多文化主義を批判した文章(『不可能性の時代』岩波新書)だが、鄭暎恵の論考にも、大澤が多文化主義に対して持つ危惧に似たものを感じる。鄭暎恵にとって、「排他的な特権化」は最も嫌うべき態度だろう。鄭暎恵はこの論文で「日本語」や「日本人」を「排他的な特権化」のような装置として厳しく批判しているからだ。しかし、鄭暎恵の論文の読後感として、その立ち位置(スタンス)からなにかしらの「排他的な特権化」を感じてしまうこの極めて皮肉な逆説はいったいどこから来るのか。これが僕の誤読や曲解のせいであればいいのだが。

『脱アイデンティティ』 上野千鶴子編 (勁草書房) 2005


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