国家に抗う国内亡命者 佐藤優『国家の罠』(文庫版)

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『私のマルクス』を学生時代の後輩に推薦したら、既に僕の書いたブログ記事をチェックしていて、「ほっほっほと笑いながら読んだ」というメールが返ってきた。おまけに、この後輩は学生時代に佐藤優を見かけたことがあるという。見かけただけでなくて、会ったこともあるらしいのだが、記憶がはっきりしないらしい。それに続けて「以前に『国家の罠』を読んだが、下手なミステリーよりスリリングでわくわくした」と書いてあった。

この問題作は読み逃していた。僕はこの種の本は苦手で、大きな書店でも、政治や思想本の棚は横目で見るだけで通り過ぎるようにしている。中身がひどく薄っぺらな本がほとんどのような気がするからだ。いや、「気がする」というより、直感的に<ダメ>と断定してしまう傾向が僕にはある。そこで、新潮文庫版で最近再版された『国家の罠』を正月休みを利用して読んでみた。荒涼たる風景が広がる世界だと思った。と同時に、砂漠でオアシスを見つけたような気になった。但し、これが本物のオアシスなのか、つかの間の蜃気楼なのかは見定めがつかない。いや、見定めをつけることより、著者が全身全霊を賭けて提出した問題提起を私たちがどう受け止めるかで、オアシスにも蜃気楼にもなりうるのだろう。まわりくどい言い方だが、そんな印象を持った。

外務省ノンキャリア組として、体を張って危うい仕事をやってきた著者は、「国策捜査」で逮捕されるが、意外にも、卑劣な他者を弾劾しない。無論、許してはいないのだが、裏切り者を非難したり怒ったりすることでは何も解決できないことを知っているようだ。闘う相手は他にいる・・というより、この事件を後世に残すことを決意し、その為に検察と対峙している。だから、拘置されている間も、できるだけ冷静に情報を収集し、状況を判断し、敵である西村検事からも何かを学ぼうとする。その真摯な姿勢と卓越した能力には脱帽するしかない。また、「変わっている」佐藤優にほとほと手を焼きながらも、検事としての仕事をこなす西村氏にも妙な同情を禁じ得なかった。

著者が本文で書き、<あとがき>でも引用している「<新自由主義とナショナリズムという>本来両立しえない二つの目標を掲げ、現在日本の政策転換が進められているように思えてならない」という部分には同意見だ。これに続けて著者は原著が出た2005年の時点で「この絶対矛盾が自己同一を達成し、新たなパラダイムを構築するのであろうか」と反語的に述べているが、新たなパラダイムの構築とはほど遠い状況に私たちは置かれているようだ。そもそも「絶対矛盾の自己同一」は難解で知られる西田哲学の用語である。わかったようでわからない世界。「絶対矛盾の自己同一」てな比喩を使うこと自体、「自己同一なんてありえない」と佐藤優自身が考えている証拠なのかもしれない。「新たなパラダイム」なんてのは幻想で、リアルな外交交渉の現場にいた著者には似合わない。

ところが、著者は思想家であり、キリスト教徒である。それもキリスト者であること、神学を学ぶことを生きる術にしている人物である。嘘と権謀術数と権力欲だけの外交官というイメージとは違う。むしろ、他人を信じて裏切られるタイプではないか。「誰も信じるな」というのは、インテリジェンスの専門家である著者も誉めていた映画『グッド・シェパード』に何度も出てくる台詞だが、佐藤優は最後の最後で「誰も信じるな」とは言えないタイプの外交官だったのではないだろうか。また、この本には、外交官の仕事は、本当に自分がやりたかった仕事、好きな仕事ではないという記述がある。しかし、そういう職業に就いたら全力でやり遂げるというのが佐藤優の倫理なのだ。無論、任務の遂行には大きなリスクと犠牲がともなうが、得るものは大きく、得た友も多い。『私のマルクス』と同様に、佐藤優がそれらを実名で紹介しているところにも、読み手は説得力を感じるのではないか。佐藤優の著作は、その中身が抜群に面白いだけでなく、佐藤優自身の持つ強い磁力で読者を魅惑するのだと思う。

超越論的な哲学や思想を解説してくれる人は多い。プラグマティックな現実並びに生臭い人間関係の内実を暴露する人も多い。しかし、この両方を、体験を通して、リアルに、また、細部をおろそかにしないで結びつけ、自分のコトバで語れるひとは稀である。そこに佐藤優の不思議な立ち位置というか役割がある。また、佐藤優自身が「絶対矛盾の自己同一」みたいに見えるときがある。外交官という究極的な体制側の職業に従事すると同時に、佐藤優は思想と世界観を構築しようとする求道者でもあり続ける。拘置所で、旧約聖書を枕元に置き、ヘーゲルを読み直すくだりには、感心を通り越して笑ってしまった。誤解しないでほしい。バカにした笑いではない。これは呆れたときに出てくる笑いなのである。こんな状況で長期に渡り取り調べを受け、拘置されれば、普通の人間ではもたない。

いま、佐藤優は、「国内亡命者」としての精神を保持しつつ、「キリスト教徒としての魂」「知識人としての魂」を基本に据えて作家活動を行うという。佐藤優は同志社大学神学部時代に得たことの延長線で今も闘っている。それは、現実離れしていて、しかし、恐ろしく現実的であるという矛盾を内包しているのだが、「国内亡命者」にはもはや怖い物はないような気がする。

いや、まてよ。ある日突然「起訴休職中の外務事務官で作家の佐藤優また逮捕!」とかいう週刊誌の中吊り広告が電車で踊るのだろうか。ワイドショーの餌食にされるのだろうか。そういう勝手でまったく余計な心配をしてしまうのは、僕が『私のマルクス』を読んでいるからで、それは佐藤優と同時期に同じ大学にいたことと無関係ではない。佐藤優の「地アタマ」の良さと卓越した能力に比べ、僕なんて、ハナシにもならない。恥ずかしい。でも、何故か応援したくなる。そういう奇妙で理屈を越えた魅力を発散させているのが、佐藤優という書き手である。

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