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zoom RSS 1914年(大正2年)のワイパフ市街図 ダンブロとはなんぞや?

<<   作成日時 : 2011/05/22 20:17   >>

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これは武居熱血が出した『布哇一覧』(1914)という本にあるハワイのオアフ島ワイパフ町の住宅図である。I先生から頂戴した貴重な資料で、中央に南北に通っている道の西側に「加藤商店」とあるが、これが私の曾祖父が営んでいた雑貨店である。武居熱血(凄い名前!)は、今でいうジャーナリスト&著述業をしていた人で、元々は商家の息子らしい。このような詳細な住宅地図(今ならZ社の住宅地図)を作って出版したのは、このような情報を欲していた日本人移民が多かったからだろう。契約移民は終わっていたし、ハワイから米国本土へ移動する人も増えたが、こうして、サトウキビ耕地の町で、小さいながらも、起業した日本人も決して少なくなかったのである。

縮尺とかは怪しいけれど、この地図のおかげで、当時のワイパフの「小さなビジネスを営んでいた日本人移民たち」について、いろいろわかる。なお、ホノルルの研究は進んでいるが、ワイパフなどの周辺都市に暮らした日本人移民の実態についてはわからないことが多いそうだ。ハワイの日系移民研究が専門のM先生が私にそう言った。

さて、南北の通りは、英語ではDepot Streetで、今もある。名前がデポー通りだから、鉄道の駅かバス停か、もしかすると、馬車の駅があったのだろう。実際、地図の下部には鉄道の駅らしき図がある。「ワイパフ停車場」で、東がホノルル、西がカフク。Kahukuはノース・ショアにある場所だが、ワイパフからは遠い。当時の公共交通機関がどこまで整備されていたのかは知らないが、オアフ島を周回できたのだろうか。

この南北の通りの地区を日本人移民たちは「ワイパフ本町」と呼んでいた。東には「東町」、西には「西町」があった。キャンプというのはサトウキビ労働者が暮らすところだろう。地図の上部にある「ミル」はオアフ・シュガ―・カンパニーの製糖工場のことで、ワイパフには大きな工場があり、なんと90年代まで稼働していた。今も、その製糖工場の高い煙突が保存されているので、煙突を目印にワイパフの今昔をしのぶことができる。

サトウキビ畑と製糖工場、そして、輸送手段があれば産業は成立する。あとは労働者である。

サトウキビ畑での労働については文章も写真も動画も残されているが、ホレホレ節だけが日本人移民ではない。出稼ぎ者たちは、サトウキビ労働者たちを含めた日本人出稼ぎ移民(とその子女)を相手に様々な商売を始めた。曾祖父の場合は最初は時計店(修理と販売)で、その後、パイナップル栽培で失敗したが、最後は雑貨店経営で知られるようになる。

この地図を見ると、当時の移民の生活の様子がわかって面白い。自動車店もあるが馬具店もある(左上)。馬車と自動車が一緒に道を走っていたのだ。風呂屋さんは風呂好きの日本人には欠かせない。ざっと見ても数軒ある。鍛冶屋、床屋、醤油工場、薬屋、菓子屋。写真館も数軒ある。森田写真館は後に重要な本を何冊も書いた森田榮が経営していた。曾祖父と森田榮は同じ寺院(曹洞宗)の建設や日本語学校の運営に関わり、親しかったそうだ。森田は愛媛県出身で、曾祖父とは故郷が違う。ハワイで出会い、意気投合したのであろう。

左上に「佐和水店」とあるが、飲料水を売っていたのだろうか。ミシン屋、裁縫店などは、日本から持ってきた着物や洋服を仕立て直して使っていた時代には必須の商売だろう。洋服店、時計店はわかるが、「久保玉場」「前谷玉場」がわからない。「玉場」とはなんのことだ?。「場」ではなくて「玉湯」か?それにしても意味が不明だ。不明といえば、「ダンブロ」もわからない。「農園の外」の意味だと或るサイトにあるが、それにしても意味不明だ。「西ダンブロ」「東ダンブロ」としてわざわざ罫線で囲ってある。誰か教えて下さい!

「秋山ドクトール」は日本人のお医者さんだろう。「加藤商店」の隣家は「岡崎代書人」とある。「代書屋」さん。落語でも有名だが、司法書士さんみたいな仕事だろう。「オアフ時報」というのは日本語新聞社の支局だろうが、「オアフ時報」の名前も初耳だ。ワイパフには、後に、「日布時事」の支局が開かれるのだが・・。「朝日座」はおそらく芝居小屋か映画館か公民館みたいな施設。二世の大叔母に尋ねたら、覚えていないという。大叔母はEwaの出身で、農家の娘だった。若い頃、映画といえば、年に一回か二回、屋外にスクリーンを張って上映したのを見た記憶しかないと私に言った。「病院」「洋食店」「郵便局」は製糖工場の近く。工場勤務の人には便利だ。

日本人以外は敢えて記載していないようだ。ただ、「支那人」というのが幾つかある。

地図の下部に「在留者」が縦書きでまとめられてあり、左下に曾祖父の名前もある。

もし私が歴史地理学の先生なら、ひとりひとりの名前を、ハワイの日本人に関する史料&資料と突き合わせ、分析できるのだろうが、素人の身ではまったく無理である。ほぼ百年前の地図であり、ここに掲載されている人々の「その後」をたどるのは不可能に近い。しかし、「加藤商店」を営んでいた「加藤利作」の末裔が2011年にこんなことを書いているのだから、この地図に「居た」日本人の末裔が、ハワイや米国本土や日本のどこかに生きていても不思議はない。

いつもの妄想だが、さっきから何度もこの住宅地図を眺めている。

追記:

『布哇日本人発展史』森田榮著(大正4年、1915年刊行)によると、「朝日座」は「朝日劇場」とも呼ばれた劇場で、1900年代初頭のワイパフでの大きなストライキ時には、日本人の耕地労働者が炊き出しをした。

地図の一番下に東西に走っているのは鉄道。ホノルルとワイパフを結び、更に西〜西北へ延びていたと思われる。現在の地図を見ると、同じところにフリーウェイが通っている。現在のハワイには、マウイ島の観光客向けのもの以外、鉄道はない。私が1980年頃にワイパフに行った時はまだ線路が残っていた。

その「ワイパフ停車場」に近い場所にある「オアフ時報」とは、ワイパフのローカル新聞を編集発行していた新聞社の名前だと判明した。8ページの日本語新聞(週刊)で、編集発行人は、ストライキの時に労働者の側に立ったため、一時的に拘束された人物だとか。当時は、こういう小規模の新聞社が各島にたくさんあった。

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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
へえ〜こんな地図が残ってるんですね。

ダンブロって何でしょう?農園の外?ううむ思い浮かびません。 左端に「西ステブル」とあるのはそのまんま馬屋・家畜小屋といったところでしょうけどね。

「玉場」は想像するに昔あったスマートボールのような射的場なのではないでしょうか。パチンコ台を寝かせたような台でビー玉をバネで射出するものです。もしかしたら既に当事布哇にもピンボールがあったりして。
Hawkeye
2011/05/22 22:31
「玉場」、ビリヤード場、という可能性も。
Hawkeye
2011/05/23 20:54
ステブルは見逃してました。Stable=馬小屋、家畜小屋、ですね。ありがとうございます。

「玉場」は大尉殿のご指摘通り、玉を使う遊技場でしょう。スマートボールやビリヤードか。ビリヤード説が正しそう。ネットで調べたら、ビリヤードは明治初期に日本で最初のビリヤード場が東京にでき、大正時代に普及したそうです。この地図は大正2年ですから、時代的にも、ここにビリヤード場があってもおかしくありません。

ハワイ移民日本語を研究されている大学教授がおられるそうなので、ダンブロについて尋ねてみようと思っています。

ハワイ移民日本語で「ペンタ」って何の仕事だと思いますか?答えはPainter。ペンキ屋さんのことです。
asianimprov
2011/05/24 18:03
記事を読むのが遅れました。
玉場はビリヤードでしょう。
ダンブロは、down below です。ホレホレ節にもありますね。
条約切れるし 未練は残る ダンブロのワヒネにゃ 気が残る
eiraku
2011/05/26 19:41
ありがとうございます>eiraku-sama

「ダンブロのワヒネ」ですか。ホレホレ節は生々しいですね。いったい幾つ歌詞があるのやら。

down belowということは、サトウキビ畑と居住地の境目と解釈していいのでしょうかね?

西ダンブロの先は畑。東ダンブロの向こうも畑。

このふたつに挟まれた所に町ができる。

この「条約」は契約移民がなくなり自由移民になった事ですかね。1900年はそういう年でした。ハワイが米国の一部になった年でもある。

Google Mapで現在のワイパフを見たら、この地図とだいたい重なりました。一番下の鉄道?はフリーウェイになってます。

そうそう。この地図と同じ場所をGoogle Mapで見ると、興味深いです。
asianimprov
2011/05/26 23:22
「条約」は契約移民がなくなり自由移民になった事だと思います。

ダンブロはキャンプだと思います。こんな歌もあります。

カネはマウカで 水当て仕事 ワヒネはダンブロで浮気する

本当に生々しい。
eiraku
2011/05/28 10:28
ダンブロ=キャンプですか。ワイパフの町はキャンプに挟まれ、丘の上の製糖工場の下に広がったわけだ。現在のワイパフは住宅街ですが、当時の生活を保存した野外博物館があります。Hawaii Plantation Village。

ホレホレ節については、今度、N先生が研究発表をされるので、楽しみにしています。男女のことを歌う歌詞が多いのもホレホレ節の特徴なのかなあ。「ハワイ日本語」は、その当時の移民たちにしか理解できない言葉なので、余計に生々しく感じます。実際にプランテーションで歌われたホレホレ節とお座敷での余興で歌われた「お座敷ホレホレ節」があるそうです。
asianimprov
2011/05/28 13:21

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