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zoom RSS 『創られた「日本の心」神話』 「演歌」という文化

<<   作成日時 : 2011/04/09 18:27   >>

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演歌を聴いたことのない中国系アメリカ人に英語で演歌を説明できなかったという思い出がある。なんでそんな話題になったのか覚えていないが、相手はミュージシャンじゃないし、日本の大衆音楽も知らない。真っ青になった。音楽を言葉で説明するのは不可能だと言ってしまえばそれでお終いだ。しかし、音楽それ自体ではなく、どんな背景を持つ音楽かくらいは英語で説明はできる。宮廷の音楽なのか伝承された民謡なのか、何時代の音楽なのか・・。たぶん僕もそういうふうに演歌を説明しようとしたのだ。しかし、英語にならない。日本語でも出てこない。結局、情感を込めた、「こぶし」と言われるビブラート(ビブラートという説明も不正確だが)を多用した、独特の音階を多用する、しかし、民謡ではない歌入りのポピュラー音楽だとか、そんな苦しい説明をしたのだと思う。

さて、この新書は、演歌=日本(人)の心、という神話をビリビリと引っ剥がすために充分な情報量と巧みな引用、極めてトリビアなエピソード、そして、これらを結び付ける時代性と社会性を有する稀有な出来上がりになっている。僕は演歌は「創られたジャンル」であるとずっと思ってきたので、結論それ自体には驚かない。しかし、この結論に至る過程で著者が鍋に放り込んだ圧倒的な具材(音楽)の種類と、それを何日も煮込んで、理論の布で濾過したスープの濃厚さには驚いた。音楽人類学とも呼べる、理論的に鍛えられた研究であるところが新鮮だ。僕の印象では、民族音楽学者が大衆音楽について書くものは、音階(スケール)やらリズムやらの音楽理論に傾いてしまうことが多い。そうでない研究は、反対に、カルチュラル・スタディーズ的な、「記号と戯れる」ような、易しいことをわざわざ難解な言葉に置き換えるだけの論文になってしまうことになり、これもツマラナイ。

中身の紹介をする時間がないので、私的に楽しかった部分を記すと、例えば、都はるみが「うなる」のは、弘田三枝子の歌い方の模倣に由来しているという説明には、「なーるほど!」と膝を叩いた。(笑)演歌とは関係ないトリビアだと思われるかもしれないが、そうではない。日本の歌謡曲や演歌がいかに「なんでもあり」で、「雑多」で、「文化横断的」であったかという証拠のひとつなのだ、これは。弘田三枝子。サザンの桑田が「ミ〜コ〜」と叫ぶ曲を録音しているほど凄い歌手であった。今の若い人は知らんだろうが、僕が子供の頃には、アメリカン・ポップスやジャズを歌わせたら弘田三枝子に勝てる歌手はいなかったのだ。今の日本人ジャズ歌手なんて、弘田三枝子の足元にも及ばない。都はるみもまた、ユニークな歌唱法で世に出た歌手であった。

この雑多性こそが歌謡曲の歌謡曲らしさで、その「ごった煮」性がいかに幅広く、また、虚構性に満ちていたかは、この本を読めばわかる。これも若い人は知らないだろうが(こんな前置きを言うようになった僕は老人か?(苦笑))、著者がアイ・ジョージにページを割いているのにも感心した。子供の頃、僕が初めてラテンっぽい音楽を聴いたのは、中南米から来た「本場」の歌手ではなく、坂本スミ子であり、アイ・ジョージであった。ただ、アイ・ジョージについては、その風貌と雰囲気から「ただ者ではない」と感じていたが、いつの間にかメディアから消えてしまったので、忘れかけていた。たぶん、アイ・ジョージという歌い手個人の人気がなくなったというより、アイ・ジョージ的な「うさんくささ」や虚構性が時代に合わなくなってしまったのだろう。「ラテン歌手」という位置づけも今はまず聞かないし営業的にも意味がない。しかし、「「流し」の歌手」という枠組みは気がつかなかった。著者は1974年生まれなのによく調べ上げていると思う。そうそう。「流し」といえば田端義夫だが、田端義夫は絶対に「演歌歌手」じゃない。美空ひばりが「演歌歌手」ではないように。なお、ジェロは演歌について間違った知識を持っているが、それは彼の祖母がそう教えたせいなので、仕方がないし、それを責めるのは無理だ。

それで、僕が気になるのは、五木寛之たちにより、「レコード歌謡の一ジャンルとしての「エンカ」が「発明」され、それが「艶歌」とかいう当て字をされた後、「演歌」となり、「日本(人)の心」として理解され受容されていくプロセスのほうである。これもこの本に詳しいが、「演歌」は、近年は「仏教仏教」と唱えているだけのさほど重要でもないこの作家の妄想とレコード会社の戦略とが一方的に創作した虚構ではなく、「「日本(人)の心」を表現する歌」の不在(これ自体も虚構だが)を埋めるなにかを待っていた多くの大衆の心の隙間にはまったのだろうと思う。カラオケの普及も「演歌」の延命に大きな役割を果たしているのではないか。以上は僕の印象であり、著者の意見ではないけれど、当たらずとも遠からじと思っている。

それから、「演歌」の誕生には、当時のジャズ評論家(左翼的かつ観念的な)やら大衆文化絶対主義者やら新左翼(くずれ)の思想家たちによる解釈も深く関係しているという指摘はよくわかる。僕も、そういう人たちが書いたジャズ本を一応読んでいたので、その功罪は知っている。芸術運動が前衛と大衆とに分離するのが怖いから、情念だとか衝動だとか土着だとかいう方向に行かざるを得ないわけだ。社会主義的芸術運動などは勿論ダメなので、結局、特定の歌手をシンボルにして誉めちぎることにより、その他大勢の凡庸さを浮かびださせることになる。竹中労は美空ひばりを、平岡正明は山口百恵を崇拝した。著者はここに相倉久人を加えているが、僕にはその意図がわかる。これらの異端者たちが論じる大衆音楽論やジャズ論と、「艶歌は日本のブルースだ」という五木寛之の小説の中の一節は、違うようで実はどこかで共鳴しあい、あの時代を作っていったのだろう。

蛇足だが、ここに中村とうようを加えれば、更に面白い味付けができたのではないだろうか。中村とうようは元々はラテン音楽が専門で、ロックやフォークに来たが、「民族性」に強くこだわった評論家であった。NMM誌(今のミュージック・マガジン)を購読していたので、僕も中村とうよう的な見方をしていた時期がある。中村とうようはある種の原理主義というか純粋主義で、ウェザー・リポートを「プリミティミズムの偽物だ」と批判し、「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」にこだわっていた。

で、「演歌」の結語的存在として、この本での議論は藤圭子へとなだれ込むのだが、ここでは割愛する。

以上、かなり強引な読み方をしているので、誤読が幾つもあるとは思うが、お許しを。クレイジー・ケン・バンドや大西ユカリまで出して「昭和歌謡」に言及している事を含め、キャッチーでサービス精神にあふれた著作であることは間違いない。こんなことを書くとひんしゅくを買いそうだが、「大衆はバカだ」という意見には一理ある。歌謡曲という豊穣でユニークな歌の世界(こんなのは世界的にも稀有だ!)を「演歌」で代用するなんて、ほんとにつまらない。ま、好き嫌いだといえばそれで議論は終わりだが、歌は文化であり、大げさに言うと、生き方のスタイル(流儀)でもあるわけで、好き嫌いで済ますわけにはいかない。

追記:わずか1ページ足らずだが、この本には「左翼音楽エリート・いずみたく」という項目がある。このあたりは、今度、渋谷さんに尋ねてみよう。たぶん、嫌がられるだろうけど。(@_@)

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内 容 ニックネーム/日時
「創られた『日本の心』」というのは面白いタイトルですね。小さい頃、お琴を習っていた私は時々叔父に「演歌を弾いてくれ」と言われて戸惑ったことを思い出します。筝、三味線などの「邦楽」と演歌は、全く違うものです。もちろん歌い方に民謡的なものも取り入れている人もいますが(細川たかしとか?)、演歌は別のジャンルですよね。とはいえ、小さいころからカラオケに演歌はつきもの、で育ってきたので、ある程度親しみもあります。友達とカラオケに行ったとき演歌を選ぶと驚かれます。

私もアメリカ人に演歌を説明する時は「日本のブルースのようなもの」と説明していました。(笑)

「コリアン世界の旅」の「シークレット・メッセージ」の話を思い出しました。都はるみや美空ひばりの歌の歌詞に、在日コリアンたちが祖国や、祖国に住む家族を思って聞いていた、という話です。

在日コリアンや日本と関係あるかどうかは分かりませんが、韓国にも演歌と似たようなジャンルがあるようで、南大門市場に行ったときに流れていたのを思い出します。
とりとめもないコメントになってしまいました、すみません^^;
hana
2011/04/14 04:13

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