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このブログでは、アジア系アメリカのアート、特に音楽や映画や平面の作品(絵画等)や、歴史、社会、文化、民族、人種等々を、勝手に俎上に乗せて、部外者の日本人が(←ブログ主のこと)ああだこうだと理屈をこねているが、この分野にこだわるのには、この分野は米国でもマイナーな存在だし、ましてや日本では・・という理由がある。しかし、先日の土曜日、移民研究並びに日系アメリカ人研究で、学問の世界の軸となる研究や論文を次々と発表されている京大人文研の竹沢泰子先生によるアジア系アメリカ人芸術家とその作品、そして社会的意味を探る発表を聞き、僕は非常に勇気づけられた。偉い先生(権威主義的に「偉い」というのではなく、僕は竹沢先生のお仕事を尊敬している)と自分が同じ興味をシェアしているから、という理由だけでなく、「アジア系アメリカ人芸術家と作品の現在」をターゲットとされた発表の中身に大いに触発されたからだ。 要するに、80年代から90年代にかけて盛り上がった「アジア系アメリカ人意識/アイデンティティ」と「多文化主義」を基にした芸術運動が、様々な問題と課題を解決できないままその力を失ったということ、そして、現在は、「アジア系アメリカ人」という従来の枠組みに入らないアジア系あるいはアジアからやってきた芸術家が生み出す芸術作品が"One Way or Another" Asian American Art Now (2006)という大きな展覧会(*)に出品されるようになっているという現実があるということ、この大きな変化を、竹沢先生は、作品の画像等を見せながら解説して下さった。 *「・・アイデンティティの問題は、劇的に形を変えているか、あるいは時には完全に姿を消している」(この展覧会についてのNew York Timesの評) 面白かったのは、新しいアジア系アメリカ人芸術家たちは、インタビューしてみると、決してアジア系アメリカ人もしくはアジア人という出自にこだわっていないとか、まったく自由になっているわけではないというところだ。しかし、新しい世代の芸術家たちは、このブログでも取り上げたロジャー・シモムラの絵画のように、芸術作品によりステレオタイプを告発したり、アジア性(シモムラの場合は浮世絵)を押し出すような従来の方法論の限界を悟っているので、彼らの作品は透明感のある抽象的なものにならざるを得ない。だから、ニューヨークタイムズには誉められるし、現代美術のマーケットには受け入れられやすい普遍性を有する。 それから、「アジア系アメリカ」ではビジネスにならないという厳しい現実がある。いま米国で加熱気味に人気があるのは中国や日本の現代美術で、古典ではない。浮世絵や水墨画では古すぎるということだ。日本人で人気のあるのは村上某というイラストレーター(でいいのかな?)で、トンデモナイ値段で取引されているらしい。「アジア文化」は依然として米国の美術マーケットで活発に<消費>されているのだが、それは「アジア」であって「アジア系アメリカ」ではない。ここも竹沢先生の発表のキモだと思う。 また、何世代にも渡って米国に生きてきた従来のアジア系アメリカ人とは違う、ここ十年〜二十年くらいでアジアから大量に米国に渡ってきた若い世代の「アジアから来たアメリカ人」がいて、西海岸の大学にある「アジア系アメリカ研究所」で行われている学問とは乖離している状況が出現しているわけだ。学問が現実に追い抜かれている。 こういう変化は僕も感じてきた。このブログは、やや時代遅れの「アジア系アメリカ」を紹介することにより、かえって「アジア系アメリカ」を固定化し再生産してしまう危うさを秘めている。しかし、僕の浅はかな知識と乏しい経験では、とても芸術の最前線で何が起きているかまではカバーできない。けれども、カバーできないからといって、いつまでも80〜90年代に根を持つ「アジア系アメリカ文化」にこだわっていると、時代の急速な変化についていけなくなる。ディレンマである。竹沢先生の発表を拝聴して、このブログに書いてきたことやコメントをつけてくださる皆さんとの対話の意味を或る程度確認できたものの、自分自身の古さも思い知らされた。まぁ、若くないので、仕方がないのだけれど。(歳のせいにするな!(笑)) さて、もとにもどる。自らのエスニシティーに基づき、アジア系アメリカ人の自意識を強く押し出すことと、米国の主流派文化或いは対抗文化とアジア系アメリカ人性をぶつかりあわせる、或いは融合させることは、音楽に例を求めるならば、西洋楽器や西洋音楽にアジアの楽器や音楽を導入する試みと重なり合う。このブログではそういう録音のことを何度も紹介してきた。しかし、この方法での文化運動が、マイノリティーとしてのアジア系アメリカ人の世界を音楽的に表象することに終始していることも認めざるを得ないし、その世界から外の世界へ大きく展開していったかというと、そうでもない。その理由を、白人主流派が実権を持つメディア業界の政治性や多数対少数のパワーバランスに求めることもできるが、それだけが理由ではない。 アジア系アメリカ人独自の文化運動は必要だが、それが内部で生産され消費される商品である限り、結果として、ステレオタイプからの自由を目論んだはずが、かえって「アジア系アメリカ人のエキゾチック性」を強調するだけに終わったり、明確な方向性を伴わない、一過性の文化運動に終わってしまうことはあったと思う。ステレオタイプを告発することは出来るが、では、ステレオタイプのない<真正のアジア系アメリカ人像>というのがあり得るのか?いや、あり得ないだろう。人間の認識からステレオタイプを完全に捨象することはできない。フランク・チンのように、ステレオタイプを激しく非難しても、結局は、オーセンティックな伝統文化を背景とした真正性を標榜することに戻ってしまう。これがもっと進めば、「アジア系アメリカ人のアイデンティティの本質化」というオカシナ結果を生み出す。 また、アジア系のそれぞれの集団が、自分たちが如何に差別され苦難の道を歩んできたかという歴史を表現するあまり、「被害者意識の競合」のような状況が表れてきたことも事実だ。無論、それぞれの移民集団にはそれぞれの歴史があり、それを訴えることは当然の権利なのだが(例えば、日系アメリカ人にとっての収容所経験)、自分たちを「被害者」という枠組の内部に固定化してしまうと、「誰が最も悲惨な被害者か?」という奇妙なゲームになってしまうことも否めない。これは、「誰が真の愛国者か?」という議論と同じで、本質論から外れてしまう、というより、「誰が一番偉いか?」という陣地取り合戦になるのがオチである。この他、アジア系アメリカ人といっても、東アジアからイランまで、あまりにも多様で、求心力に乏しいという指摘もある。これは「アジア系アメリカ」が「アジア太平洋系アメリカ」に拡大してきた経緯を見ても明らかで、多くを束ねようとすれば、紐帯や中身は希薄にならざるを得ない。 さて、「アジア系アメリカ人とは誰か?」と再度問いかけてみよう。かつては新鮮な響きを持っていたこの概念も、21世紀を迎え、9/11を経験し、アジアから米国への今までにはなかった移民の流入(例:中国、韓国、ベトナム、インド)や東アジアからの養子縁組の増加などを考慮に入れると、私たちがイメージする移民像(例えば、日系一世〜二世〜三世という連続性)が根底から崩れつつあることは認めなければならない。では、これからどうなるのか。それは予言できないけれど、アジア系アメリカの動きが、日本人が米国という国を考える上で大きな示唆を与えてくれるとしたら、今後とも目が離せない。 最後にひとつ。ルイジアナ州で、米国史上初めてのインド系アメリカ人知事が誕生したニュースを読んだのはつい先日のことだ。この知事は両親が移民してきた。日系アメリカ人風に言えばインド系二世だ。インドの言葉も話せるという。これには驚いた。わずか二世代で知事になったのだ。日本ではまずあり得ない。この知事が、共和党から立候補し、特にアジア系アメリカ人が多いわけでもない(と思う)南部の州で勝利したことは無視できない。ルイジアナ州にはインド系は何人くらいいるのだろうか。アジア系アメリカ人は新しい知事を支持しているのか。現在、米国内のインド系社会の興隆は明らかで、高学歴高収入が特徴だと日本の某新聞も書いていた。しかし、「インド系はアジア系アメリカ人の範疇には入らない」という意見もある。他の国とインドでは文化が違いすぎるというのだ。ああ、この問題だけでも大変だ。 追記:この知事のことを調べたら、二度目の立候補であったことや、ハリケーン・カトリーナの影響や、保守的な主義主張や、ヒンズー教からキリスト教への改宗やらの事実がわかって、「ああ、この人は従来の<アジア系アメリカ>から出てきた政治家とは違うな」と感じた。彼に投票したのは共和党を支持してきた白人保守層であり、マイノリティーは大きな役割を果たさなかったのかもしれない。南部の州でアジア系が知事になるためには、思いっきり保守になるか、アフリカ系や他のマイノリティーから支持を得るかしかない。どちらも味方に付けるのは無理だろう。ボビー・ジンダル氏は前者を選んだ。しかし、彼は若干36歳である。主義主張はともかく、恐れ入りましたと言う他はない。 なにも考えずに書いたので、文章がめちゃくちゃだが、ご容赦ください。m(_ _)m BGV: J-Town/Bronzeville Suite by Dave Iwataki (写真) *戦前〜戦中〜戦後のリトル・トーキョーの盛衰をテーマにしたこの組曲では、邦楽(詩吟や琴)とジャズが奏でられる。イワタキの方法はやや古風な装いを持つが、音楽はソフィスティケートされており、馴染みやすいものだ。来年、ピアニストの仕事で来日するらしい。 |
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| タイトル (本文) | ブログ名/日時 |
|---|---|
Process of the formation of collective identity .....
12月になってしまいましたね。今日はもう12月2日(日本時間では3日)。今年も1ヶ月を切ったんですね〜。 ...続きを見る |
multicultural SF 2007/12/03 15:40 |
| 内 容 | ニックネーム/日時 |
|---|---|
うーん、このPostには軽々しくコメントできません。 |
IKEGAMI 2007/11/24 02:36 |
「芸術家の抵抗と葛藤」を受け止めるには、こちらにも受け止めるだけの度量が不可欠です。でも自信はないなぁ。アジア系アメリカから何が学べるかという課題は、自分がアジア系アメリカをどう理解するかにかかっている。僕はまだまだ甘いと思います。 |
asianimprov 2007/11/24 16:41 |
難しい表現は苦手なので、ただ言いたいことだけを…asianimpovさんのブログはおもしろいです。それに、日本人としての誇りを忘れがちだった私にとって、「こんなに葛藤して、こんな生活をして、培ってきたこんなに素晴らしい作品が生まれてきたんやで。」と噛み砕いて見せてもらえる意味深いブログです。時折みえるasianさんの葛藤や怒りもストレートで、真剣であられるのが嬉しく、毎回楽しみにしています。改めてありがとうございます!で…うひょ〜。そんな真面目な皆さんの集まる席で春巻き!なんだか口で餃子も作ってたんでしたよね。(やめなさい!!←天の声)若い世代の音楽にも心開いておられる事も、私はウレシイです。Much Respect! |
chi-B 2007/11/24 23:15 |
うひょー、<口で餃子>!! |
IKEGAMI 2007/11/24 23:52 |
ゎゎゎ…えらいこっちゃ。だからコメントって難しい!結構これでも昨日こちらを読んだ時から考えてて、真面目に書いたつもりやったんですけどねぇ。(ずっとLeeOscarをリピートしながら)清らかな皆さん、気を悪くなさいませんように。私の戯言はそっと忘却の彼方に飛ばしてやって下さい〜。 |
chi-B 2007/11/25 00:07 |
最近ある人との話の中で、自分のheritageと関係のある文化や言葉と強く関ってきたその人と、そうでないほかのアジア系の友達とのギャップを感じながら生きてきた、という話を聞いたことを思い出しながらこれを読みました。あえてことばで言うなら、"Asian American-ness"ってなんなんやろう、ということを、どんな背景で育ってきたとしても、それぞれの立場で向き合おうとしたときに、葛藤が生まれるんでしょうね。19世紀後半〜20世紀前半に移民してきた先祖を持つ人と、第二次世界大戦後〜2000年代に移民してきた人と、世界的な状況もあっていろんな違いがありつつ、「アジア系」あるいは「アジア太平洋系」という、とても広い範囲に含まれることによってなんらかの共通性みたいなものをお互いに感じているようにも見えるし・・。おもしろいけど、とても複雑です。おもしろい、といってしまえば他人事のように聞こえるけれど、私自身は自分の中の「アジア」が広がって、「アジア系アメリカ」人からも、その概念からも影響を受けたなあ、と思います。 |
hana 2007/11/25 01:29 |
ぼくが新コラムのサブ・タイトルを「アジア系文化の散策」として、アジア系アメリカ、としなかったのも、アジア系アメリカ、に窮屈さを感じたからです。本当はこれをメインタイトルにしようと思っていましたが、編集長の田中さんはそれは固いから副題にしようということで、メインタイトルは、Asia! となっています。田中さんがぼくの関心のありようをいろいろ聞きながら、ぼくの関心は一言で言えば「アジア」なのだ、と思ったのでしょうね。ぼくの場合は、もともとアジアから入っているので、田中さんがつけたシンプルなタイトルに違和感はありません。アジアとアジア系アメリカ、あるいはアジア系移民文化をどう絡めて書いていけるか、私も模索しながらチャレンジしていきたいと思っています。 |
らく 2007/11/25 11:37 |
濃密なコメントありがとうございます>all |
asianimprov 2007/11/25 17:25 |
(もっと!←巷の声) |
etchan 2007/11/26 20:00 |
春巻きと餃子の意味がぜんぜんわかりません。解説してください。(笑ーまじで。。)ドーナッツは分かるような?? でも誤解しているかも??です。(笑)竹沢先生がおっしゃったことは、要は、アジアが力をつけてきた、それだけのことなのでは?? 市民権さえとれば、誰でもアメリカ人になれるわけですから、アジアから来た「アメリカ人」一世と、日系や中国系のように戦前に移民した人たちの四代か五代あとの「アメリカ生まれのアメリカ人」を、同じように「アジア系アメリカ人」とすることに無理があるというか。。。。どこか、歴史は繰り返す、の匂いがしないでもないですが。。(笑) |
蒼い雪 2007/11/27 01:11 |
>蒼い雪さま |
asianimprov 2007/11/27 18:11 |
東京の六本木でBourbon Street というクレオール料理の店をやっている ソーハン氏もルイジアナのレイク・チャールズ出身のインド系。南部にはけっこうインド系が多くて、モーテルなんか経営している。映画『ミシシッピー・マサラ』でも、アミン政権下のウガンダから、親戚を頼って移住してきたインド人家族を取り上げていましたよね。そうそう、この Bourbon Street のバーでは、ウチのパートナーが毎週演奏してます。http://www.stevegardner.info/ |
mayucat 2007/12/16 11:11 |
mayucatさん、コメントありがとうございます。 |
asianimprov 2007/12/16 20:36 |
ふらりとまた通りすがって・・・ |
etchan 2007/12/17 00:06 |
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